いまいひと物語
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商売の本場で勝利した。さらに、商売の転機という好運をつかんだ。一つの成功は、もう一つの成功の引き金になる。片倉製糸江津工場で認められた繭容器は、片倉製糸の全国の工場へ採用されることとなり、今井庄之助は商売の都、大阪ヘ進出していった。立志編||削剥13年~|胤利12年・26「今井金物店大阪出張所」(今井商会)開設。昭和同年。なんと、庄之助は、大阪に店を構えた。昭和同年のことである。片倉製糸の全国への備日間関係を扱う部門が大阪出張所にあったからで、茅野工場長(その頃、工場長心得から工場長へ昇格されていた)からお墨付きをもらったうえでのことだった。店の名前は「今井商会」だった。「今井金物店」から、名前の土でも一歩前進しているように見える。事実、翌日年から片倉製糸の全国の工場へ繭容器を納めたのである。その頃の片倉製糸の工場は却カ所あったから、仕事は多忙をきわめた。まさに「昼夜を問わず」の仕事で、「眠る暇もない」生活が、5年続く。この時、庄之助は、普通では手に入らない財産を二つ手に入れたことになる。一つは、身を粉にして忙しく働いたお陰による大きな資金であり、もう一つは、商売のコツということである。庄之助がいた頃の大阪の街。江戸時代から商人の都で、庄之助はこの地で商人道を磨いた。片倉製糸大阪出張所。全国の工場で使われる機械部品や道具を扱い、庄之助は自慢の「繭容器」を一手に納めた。
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