いまいひと物語
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木材統制法による会社、邑智木材株式会社時代の写ー真。前列左から5番目が当時の今井専務理事(会長)。@の焼印。品質を約束し、企業イメージを広げる役割も果たLた。後もそうだが、経営上の判断とその対策は、庄之助の場合ほとんど一体化している。正確であり、脈絡があり、速い。ちなみに、この頃、今井材木店は巴智郡で初めて自動帯鋸概を導入している。ところで店を、生まれた江津村(現江津町)ではなく、川戸村に本拠を置いたのはなぜだろうか。それには次のような理由があったようだ。①川戸村は江の川の流域にあり、大きな支流八戸川との合流点にあって、水運と陸連が便利に利用できた。②もちろん河口の良港・江津港にも近く、日本海の航路や鉄道が便利に利用できた。③そして、夫人であるカズコのふるさとで、吉岡丸一さんや吉岡喜多雄さんなど多くの縁故、知人から人材を登用できることも大きい。④カズコの実家・吉岡家が、大阪での儲けをこの地方の山林買いに向けてくれた。以上を合わせたところに、庄之助はもっと大きい夢「植林から住まいまで」という理想を描いていたようだ。木材統制時代を越えていく経営の器。折しも、戦争の時期だった。昭和ロ年(1937年)5月、重要産業5カ年計画が策定されたが、これは戦争遂行のための経済構造転換のためのもの。同年7月に日中戦争が始まると、「戦時統制三法」が成立し、国家が資金、資材、労働力を一元的に支配することとなり、昭和打年、木材関係も民間の個人経営から、国家の管轄のもとに集約された。庄之助が始めた今井材木店も、邑智郡の木材会社が統合された「邑智木材株式会社」の中に吸収された。戦時下の、すべての木材会社が同列に並ぶ時代ではあるが、庄之助はここで専務理事役の要職に維された。すでに、事業経営の腕が評価されていたのだろうか。そして、終戦後の昭和幻年、GHQ指令、いわゆるマッカ!サl指令によって統制は解かれ、旧木材会社への設備返還が進められることになる。そして、今井材木店が業務を再開した。間和M年、今井産業有限会社へ組織変更。個人経営から組織経営への転換をはかったのだ。この年の売上高は、530万円余り。確かな、大きな再出発だった。富士製作所70型自動帯鋸機。最新の道具を惜しみなく導入するのが、会社と社員の自慢だった。33・試練編l1938年~1957年

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