いまいひと物語
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中国太郎(江の川)が育てたたくましい経済人。林から住宅までJとし、う事業を実現しましたね。んAC 社長一惣一清央締21・中取削声陰表十仁山代-ム当時の社屋内の風景。カズコ会長夫人(前方左)と、順子社長夫人(その左後ろ・現美術館長)が夕食を用意している。真ん中に会長と久祥社長がし、で、戻ってくるヰ土員をねぎらっている。(画:山崎孝利取締役施工本部長)ただ売るだけでなく、「島根木材」のイメージ拡大に貢献。とりわけ戦後は、焼け野原になった東京、大阪、名古屋、広島に住宅用として、また学校、官庁用として木材が必要になりましたが、戦後復興の立て役者になったのが島根県の木材林業関係者ですよ。昭和問年に「島根県木材協会」を設立しましたが、今井庄之助さんは理事と邑智支部長を引き受けられた。島根の木材の声価を全国に広めた功績は大きいですね。県会に出られて、そこでも木材のために活躍。そして、その活躍の中で、木材業とともに、土木建築の重大さを認識なさった。今井産業の新しい道はそ・つして始まったわけですね。先見性のある事業家としても、私はいまでも尊敬していますよ。木材協会のハワイ旅行のときのスナップ。まじめに普通のシャツでとうしていたので、若手が謀って「これが旅行の制服です」とアロハを着せた。真面目人間の面白躍如だ。試練編ll昭和13年~l協和32年ー38今井庄之助さんは私より8歳先輩ですが、戦中、戦後の木材業界が大変な時代に一緒に生きてきたことを、私は誇りに思っています。昭和同年に木材統制法が施行されて個人経営の木材会社が禁止となり、翌口年には当地方で統制会社の邑智木材株式会社が設立されたわけですが、今井さんは専務理事としてまとめ役に素晴らしいカを発揮された。終戦になってマッカlサl指令で統制法での会社が解体されたときも、煩わしい作業をうまくまとめられた。昭和μ年からは今井産業有限会社を設立して企業として木材生産を軌道に載せられたんですね。思えば、江津という賑やかな河口港に生まれて自然のうちに商人道を身に付けられ、また「中国太郎」と呼ばれている江の川で鍛えられて、類い希なたくましい経済人になられていたんですね。

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