いまいひと物語
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こプ『~~~ー~壬ト「τ\、.「聞くはL、っときの恥。聞かぬは末代までの恥」今井産業株式会社専務取締役建般事業本部長花木安治。。ド一一一》ー一ーーーー♂ーー,一. . 桜江大橋のたもとにあった建般事委部事務所。朝早い時間(親場への出動の準備)と、夕方遅い時間(各地の現場から帰社)は、人と車両で大変混雑した。すぐそばを走る三江線の蒸気の汽笛が、人々の賑やかず声をかき消した。(OOj:・山崎孝利取締役施工本部長)ど、私ごとになるが、私は今井久人社長と浜田高校の同級生で、先代の久祥社長はやはり浜田高校の二年先輩だった。いろいろなことから、今井家に出入りするようになり、高校時代、大学時代、そして大学を卒業してからも今井家にすっかり馴染んでしまったのです。とにかく、先代の社長とは、同じ布団に寝て過こ’す生活をす‘っと過こeしていたんだから。そんなわけで、おやじさん(庄之助会長)やおふくろさん(カズコ夫人)からはまったくの自分の子供のように可愛がってもらったわけです。木材業の忙しさ、土木建築業の最初の頃の大変さは、身内のこととして経験してきました。税法上のことで、小さな間違いがあったときのことです。当社の知識の範囲からは、こちらはまったく間違っているとは思っていなかったのですが、税法の上からは違反していたわけですよ。単純に税法の一部を知らないで事務処E里していた。そのことを、おやじさんは真正直な人ですから、大変恥じましてね。社内のそういった方面をきちんと整備しなおしたのです。その後、よく社員に言ったものです。「聞くはいっときの恥。聞かぬは末代までの恥J経営的には順調にやってきたように見える今井産業で‘すが、正直に振り返ってみると幾っかの反省点はあるわけで‘す。いま申した税法上で、経理的なミス、また、異業種の瓦製造へ乗り出して失敗、また、コルフ場建設の断念・・・。大小さまざまな出来事ですが、それらの事を厳しく反省して次のステップの糧にしたのですね。当社には21世紀へのタネがいっぱいある。今、私はそう思っています。昭和38年の豪雪。災害救助法が発動された。この年今井産業は、道路舗装事業を県内で先駆けてスヲー卜させた。昭和33年の八戸川流域大水害。災害救助法が発動され、今井産業も発足したばカリjの建設事業部が対応した。Jll戸の集落を八戸Jll(写真上)と江の川(写真下)がはさむ。手懸けたのは、①舗装など未開拓分野への挑戦、②地元技術者の育成、③知識・情報の迅速入手。「利は根にあり」と盛んに言ったのは、今井庄之助会長。意味は、仕入れのことで、簡単に言うと、廉く仕入れれば、それだけ儲かるという理だ。もちろん、ただ廉ければいいというのではない。いいものが廉ければ、ということで、つねにアンテナを張っていなければならない。いわゆる情報収集だった。建築資材などのこと、技術ニュースなど情報、知識の迅速な入手を心掛け、その努力をしたため、これが結局今井産業の基本的な姿勢になった。建設業界へ避く登場した今井産業は、他社が手懸けていない分野を探したが、当時県下の道路舗装率は213%であることの知識を得、またこれから舗装がどんどん進むだろうという情報を確認し、舗装事業へ転進したのだった。さらに、Uタlン組など技術者確保に力を註ぎ、社内で資格取得を奨励するシステムをつくって、技術力の自己育成をはかるようにしたのだ。躍進の礎は、また一歩一歩築かれた。47・激動編I1958年~1972年
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